日も暮れかけ、しだれた桜に街頭の明かりがぽつぽつと照らし、幻想的な風景を生み出す。映画の一シーンのように舞い落ちた花弁が男の肩を濡らす……だが男はそんなものに目もくれることもなく鬱陶しそうに払いのけ、蛇口で土にまみれた服を洗っていた。春先とはいえ、下水管で氷のように冷やされた水は荒れた手に響く。
そんな男に近づいてきたのは、同じような恰好をした数人の浮浪者たちだった。彼らもこの公園を生活圏とする、男の同類と言えよう。
浮浪者の一人が進み出て歯の抜けた顔で笑いかけ、片手を傾けるしぐさをする。
「どうです、木ノ下さん。酒を貰ったんですが桜も咲いたし、一杯」
男は他の浮浪者たちから木ノ下と呼ばれていた。いつも桜の木の下にいるから木ノ下。特にひねりのない安直なあだ名だが、男が過去も名前も一切語ることがないのでいつの間にか定着していた。
数年前から桜の木の下で何をすることもなく座っていて、他の人間とかかわろうともしない。たまにたき火を囲むときに混ざることもあるが、ちろちろと燃えるたき火で暖をとりながら捨ててきた家族のことや仕事をしていた時のことをぽつりぽつりと話していく人が多い中、男は相槌を打つでもなく無言でじっと虚空をにらみつける。その姿勢から、ほかの浮浪者連中からは遠巻きに見られていた。
過去の詮索はしないというのが暗黙の了解だが、そのかたくなで時たま背後を気にしてる様から、実は犯罪を犯して逃亡しているのではないかとか、ヤクザの女にちょっかいを出して追いかけられてるのではないかとか、話を作り上げて勝手に噂をしていた。
なるほど男は浮浪者としては整った顔立ちをしていた。小汚いジャンパーとジーンズを着崩し常に背中を丸めて歩いてはいるものの、極端に汚らしいというわけではなく町を歩いても浮かない程度には恰好は整っているし、ガタイもいい。髪は不潔でない程度に切られ、たまにひげを剃る姿も目撃されている。加えて年齢が三十代前後と、他の浮浪者たちと比べると若い。それなりの恰好をしたら女泣かせと言われるのではなかろうか。
自分がこんなところで生活していることを認めたくないんだ。
そんな風に言う人間もいるが、それにしては元の場所に戻りたくて足掻いている様子もない。
一体どんな人間なのか。そんな思考をめぐらすことは娯楽の少ないこの場所では一種のスパイスとなる。
「いえ、わたしは……」
男は酒は飲まない。少なくとも自分ではそのつもりでいた。
「止めとけよ。木ノ下さんは酒飲まないらしいからさ。つまみもありますけど……」
浮浪者たちにとって仲間内で協力し合うのは生き残っていくための当然の行動だった。周りから浮き気味の男を気に掛けるのも、余計な行動をしないように見張るためと、純粋な心配から来ていた。
男が目をやると、桜の下には数枚の薄よごれた新聞が敷かれていた。そこには安いカップ酒と皿に放り投げるように定番のおつまみやら、良くわからない菜が並んでいた。
だが少なくともてらてらと油で光る皿に乗せられている時点で食欲はわかない。
「いいです」
そう断じてせかせかと去っていく男の背を見送りながら、浮浪者たちは口々に言った。
「無愛想な人だなあ」
「ほっときなよ。見たか、さっきの恐っそろしい目! きっと犯罪でも犯してこんなところにいるんだ」
「でも、俺はあの人がカップ酒を片手にぶつぶつ呟いてるの、見たことあるけどなあ」
「そりゃあんた、簡単に止められたらこんなところに来てないだろう」
「ちげえねえ」
そう言うと浮浪者たちは貧相な菜をつまみに宴会を始めた。去っていった男のことなど頭からすぐに追いやって。