男は他の浮浪者たちの言葉を背中で聞き流しながら桜の元に急ぐ。桜、桜だ。すべての終わりは桜だった。
男には昔妻がいた。と言っても結婚生活はほとんど破綻していたと言っても良く、長年連れ添った情で妻が男を養っていたに過ぎない。男は妻から与えられる金で毎日酒を浴びるように飲み、パチンコを打った。もちろん仕事なんてほとんどせず、妻はいつもそんな男の様子を見て眉をひそめていた。
そんな時、妻に子供が出来た。男は日々せり出してくる妻の腹を気味悪く思っていた。それと比例するように妻が口うるさくなり、男の行動に口を出すようになってきた。
男は別に子供なんて欲しくなかった。むしろ近所で騒ぐガキ共をうるさいと怒鳴りつけたいと思っていたぐらいだ。元々冷え切っていた夫婦仲はより険悪になっていく。
ある日男が夜をまたぐほど酒を飲みぐでんぐでんになって家に帰ると、そのことに妻が文句を言い始めた。妻はヒステリックに好き勝手騒ぐ。  
酒を飲むな、賭け事をするな、食事中に音を立てるな、果ては立ってトイレを済ますななど。日頃の鬱憤を好き放題に言い放った。いつもの事だと聞き流していた男だが、妻のある一言で頭が沸騰するような怒りに囚われた。
「あなたの子供なんだからいい加減父親としての自覚を持ってよ!」その瞬間何も考えられなくなった。
男は知っていたからだ。その子供が男と妻との子ではないという事を。妻が不貞を働いた末に出来た子供だということを、男は知っていたのだ。妻に愛情が残っていたわけではない。だが自分の物が誰とも知らぬ人間に盗られるという事が途方もない屈辱だった。今まで我慢していた鬱憤が、その瞬間はじけた。
男は目に入った置きっぱなしのアイロンを思わず振り上げ……

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